toshi nishi

記事一覧(9)

絶望の隣に咲く花~カモシカ書店 岩尾晋作

風土とシューレ、美しいもの。風土という言葉は日常的にしばしば使われるが、じゃあ風土とは何のことかと言われるとこれが結構難しいものだ。哲学者、和辻哲郎が著書「風土」において気候がどれほど人間の思考に影響を与えるかということを説いている。和辻は西洋や中央・南アジアと日本の風土を比肩して論じるのだが、私の体験では旅行で訪れたヨーロッパやインドと日本を比較するのはやはりやりやすい。もっと言うと長く暮らした東京と故郷大分を比較することも容易いだろう。(もちろんその差異から和辻のように人間学的考察に帰納していくのは並大抵のことではないのは言うまでもないし、後にオギュスタン・ベルクが日本論「風土の日本」を書き上げる際の礎となったのも和辻の「風土」である。)さて、たびするシューレは大分県内を巡る移動学校である。
前回は竹田に、そして今回は佐伯に移動してきた。顧問であるOPAM新見館長の導きもあり、我々はイベントだけを運営、記憶・記録するのではなく、その土地で触れ合う全てのもの、野も花も草も、当然食にも触角を立てることも、ミッションに含まれている。
県内で、現行の自治体制度に従い市町村単位で線を引いてそれぞれの「風土」を見出そうというのは、ある意味で教科書的な、ステレオタイプな印象論に終始する危険がどうしてもある。竹田は岡城の城下町で、佐伯は港町で人口何万人で、大分県は歴史的に小藩分立でうんぬん、などという情報から何かを感じ取ったと自分に言い聞かせ、こじつけるのは簡単だからだ。 先に言っておくと私が「風土」とはどういうものかと考えているかというと、それは「いま、ここにしかないもの」、その積み重ねでしかありえない、ということだ。そして「いま、ここにしかない」という「いま」を感じるのは自分の五感以外に絶対にありえない。
そもそも我々は原則的に居住の自由があり、基本はいつだってどこにでも引っ越していき住むことができる。じゃあみんなほうぼうすきずきに勝手に引っ越していっているかというとほとんどの場合そうではない。それはみんなそれぞれに事情があるからだ。ただし仕事の関係で、とかそういう話ではない(仕事の事情は、単に仕事上定められるところに定住しているので、場所は変わっても、ある意味一つ所に住んでいるのである)。私は人がどこかに住んでいるということを考えるときいつも柳田邦男の「遠野物語」のことを思い出す。「遠野物語」に1896年の三陸大津波の悲劇について語られている部分があるのだが、そこは2011年の東日本大震災の大津波の被害が大きかった岩手県船越半島の山田町である。(*1)
人は自分で思うほど合理的に、便宜的に、住む場所を選びはしないのではないか。私自身、大分市中央町が好きで好きでたまらなくて、数あるメニューから選びとったように住んでいるわけでは決してないはずだ。何かがあるから、こういう理由だから、故郷だから、こういう柵(しがらみ)のせいで、などと語ることは簡単なのかもしれないがどれもなんだか自分の気持ちにとって嘘っぽく響く。むしろ、そこに住むのに説明可能な理由があると人はそこに根を張ることはできないんじゃないか、新見館長の言葉に「小綺麗な手から美しいものは生まれない」という私の大好きな言葉があるが(*2)、おそらくその亜流として、「こう」だから「こう」なのだ、というような「小わかりのいい論理」には人間の真実は語れない、という真理があるのだと思う。佐伯に話を戻そう。今回佐伯に行って「風土」というものを感じとったつもりなのでこの話をしているのだが、「佐伯は緑も海も豊かで、人間も親切で覇気があり、素晴らしいところだ」というような文脈が自分で信頼できないでいる。ベルクが言うように風土というのは個人的でありつつも同時に集合的なものであるとするなら、個人的なものは徹底して個人的であっていいのだと思う。〇佐伯と私。OPAMとカモシカ 東京から大分に帰ってきて5年が経とうとしている。この5年の間に私は佐伯に3度行った。最初は大分が全国に誇るべき老舗書店「根木青紅堂書店」に新規開業書店主として挨拶に伺うことが目的だった。次は佐伯出身の作家小野正嗣氏の芥川賞受賞作「九年目の祈り」を新聞で紹介させてもらうために、その作品の舞台だと推測される離島、深島に取材に行った。3度目は今話題のコーヒー屋、「coffee 5」に行くのが目的だった。その後たびするシューレのプロデューサー西田さんの紹介でcoffee5のオーナー内田豪さんと連絡を取り、今回のシューレで教室としてcoffee5を使わせて頂けることになったのである。これが私の4度目の佐伯である。
今回は「美術館の面白さ。佐伯全体をマリーンミュージアムにしよう」ということで「日本一文化的な市長に文化とは何かを訊く」のだ。それは私から見ると行政がどのように自治体の文化事業に取り組むのか、という微妙な問いと同義だった。  ある空間を使って「ここで何か文化的なことをしよう」と言われたとする。これが相当に難しい。子どもの絵を飾るだろうか、あるいは著名な文化人を呼んで講演やワークショップを開催するだろうか。そういうのが「文化的」なことなのだろうか。
私ならカモシカ書店のような本屋をやるだろう。逆に言うとそれしかできないのだ。でもそれが「文化的」なことだと思っているかというとちょっとよくわからない。「文化的」でないこともないのかもしれないけど、少なくとも大分で「文化的なことをやろう!」と思ってカモシカ書店を始めたのではない。私はまず、自分の腕で食べていきたかった。そのうえでただ、自分のできることが、人よりもほんの少しでも得意なことが、多少なりともこの場所に必要なこととして受け入れられるだろう、そう思って始めたのだ。そして願わくばここから新しいエネルギーが生まれるような、そんな場所を作りたかったし日々作っている。
並べてしまうようで大変恐縮なのだが、新見館長も同じような気持ちではないかと実はよく思う。美術館は文化事業の目的ではなく手段である。当たり前だが美術館があれば必ずそこで文化芸術が盛り上がることになるわけではないし、下手をすると通知表のために取り組む義務教育の授業のように、美術館が大義名分を備え、一方方向に善を目指す短絡的なシステムとして機能することで創造性の芽を摘むことすらありえるだろう。
文化芸術は、美術館が担えるのはそのほんのきっかけの一部にしかすぎないし、担った一部にしても学芸員のものだけではないし、それを翻して言うと県民ひとりひとりが文化芸術を創造することを背負わなければならないし、しかも創造するための定石というような決まった方法論などひとつもありはしない。 「たびのシューレ」で県内を駆け巡ろうと起案し、深夜の警備員さんに差し入れをし、ミュージアムショップのスタッフを連れて食事に行く。街の人ともコミュニケーションをとっていて人気者だ。そんなことは大したことではないし当たり前のことだと本人はおっしゃるかもしれないが、そうした大分と全面的に接しながら美術館を作ろうとする新見館長の言動をみて、いつも私は「見せかけ」と「真実」の違いを身を挺して語り掛けてくれているのだと勝手に感じている。 〇佐伯全体をマリーンミュージアムにしよう。  そんな館長がいくつかの世界の美術館を紹介することからレクチャーは始まった。
筆頭は我らの大分県立美術館OPAM。坂茂による建築で、本当は館内に花畑を作りたかったが美術品保護や様々な制約の問題で断念。そのスペースにオランダのデザイナー、マルセル・ワンダースの≪ユーラシアン・ガーデン・スピリット≫を設置した。この作品は言ってみれば楕円形の高さ5メートルはあるバルーンで、重心が低く巨大な起き上がりこぶしのように動的に自立しているので、来館するこどもたちの好奇心に満ちた偉大なエネルギーから殴る蹴るの大歓迎を受け数点が撃沈しつつも、開館から今でもずっとエントランスに屹立している。≪ユーラシアン・ガーデン・スピリット≫はビビットでプリミティブな配色で鮮烈な花や蝶を思わせる図柄を一身に纏っている。それはマルセル・ワンダースから昔オランダが大分にリーフデ号の件でお世話になったお礼とのこと。リーフデ号の豊後国漂着が1600年であるから、実に400年を越えた粋な計らいである。ただしマルセル・ワンダースは芸術家としてただ華麗な図柄を贈ったのではない。実際にOPAMに行って少し距離をとって≪ユーラシアン・ガーデン・スピリット≫を見てほしいが、近くでは花や蝶に思えた図柄がどこか頭蓋骨のように見えてくる瞬間がある。死や荒廃、朽ちていくものを画面に忍ばせる「ヴァニタス」と呼ばれるオランダ伝統の静物画の表現方法を彷彿とさせる。我々は「死」を思い、そして自らに「生」を問う静謐な瞬間の訪れである。
同じフロアで、≪ユーラシアン・ガーデン・スピリット≫の美意識に須藤玲子が≪ユーラシアの庭「水分峠の水草」≫で蓮の花の造形を借りて東洋の美意識で返礼している。  人類の起源を探る独自だがモンゴロイドとして他人事に思えない「ブリティッシュ・コロンビア大学 人類学博物館」。私は行ったことがないが現代美術館の王様という印象がある「ニューヨーク近代美術館MoMA」。スラムのような荒廃地域を創造的に復興させた「ロンドン テート・モダン」。人類の悲劇を未来のために記憶に留めるための「ワシントン ホロコースト記念博物館」。ニューヨークの大都市の中にある世紀末ウィーン美術専門の「ノイエ・ギャラリー」。北欧ならではの手仕事を感じる「デンマーク王立美術工芸博物館」。堅牢な駅舎の骨格を再活用した「ハンブルグ駅舎国立現代美術館」。産業奨励館の発展形として日本に唯一のファッション専門美術館となった「神戸ファッション美術館」。
話とスライドはこのように続き興味が尽きなかった。どの美術館も美術品を展示補完するための箱という機能以前に、過去や未来と、そしてそれぞれの地と、密接に繋がって存在していることがわかる。どの美術館も、そこに行くためだけに旅行したくなるだろう。そして何より、どの美術館も面白い学芸員や館長がいて、それぞれが作品を創造するように美術館を運営しているのが、美術館のまわりの街並みの美しさや活力が、私にはありありと想像できる。  さあ、それでは、佐伯全体をマリーンミュージアム化計画は如何にして可能なのか。  そこで館長が持ち出したのは「ごまだし」である。佐伯までの往路の途中に館長と訪ねた「味愉嬉食堂」(みゆきしょくどう)にごまだしうどんは誠に見事で、私はすぐに替玉をした。そのおいしさは筆舌に尽くしがたく、ただただごまだしうどんとともにあるこの時空が少しでも永くあることを祈り、また自分の胃袋の体積の凡庸なことを悔やんだものだ。
恥ずかしい話だが、わたしはこれほどまでにおいしい「ごまだし」というものを今まで知らなったに等しい。最後に食べたのはいつなのかもう記憶にないし、少なくとも30歳で大分に帰ってきたから一度も食していない。これまで大分を代表する郷土料理としても挙げることはなかった。だからこれからはこの感動をたくさんの人に伝えたいと思っている。  詳しくは館長の報告記にあるのでここで重複することは避けるが、「ごまだし」→「原料のエソの鱗(うろこ)」→「三角、テトラ構造」→「バックミンスターフラーのジオデシック・ドーム」→「イサム・ノグチのオクテトラ」という驚くべき話の展開となったのである。  佐伯市立オクテトラマリーンミュージアム構想がここに立ち上がった。これが立ち上がったら私が館長をやりたい、館長のレクチャーのクライマックスはそのように結ばれ、40人を超える満席の会場のすっかり熱く盛り上がった。それを受けて今回のゲスト、田中利明現市長がにんまりと、立ち上がったのだ。 〇驚異の市長、田中利明。サタン文化と極楽浄土。  田中利明市長は30歳の時から政治一本でやってきたらしい。なるほど、はきはきと率直に喋る勢いが心地よく、次々と語られる理念に誰もが関心を持つだろうから、政治家というものにほとんど接したことのない私にも、この方は政治家向きなのだろうとすぐに納得した。  ご登壇されて10分も経っただろうか。私はどんどんと、この方の魅力は「政治家をするに当たって人間的に非常に印象深い」どころのものではないことを思い知っていった。
どのように表現すればいいだろうか。私はいまだにそのときの驚きの中にいるのでうまく把捉できていないのかもしれないが、つまり、語り口が極めてダイレクトなだけではなく、語られる世界観の重量が、ものすごいのだ。これはちょっと尋常ではない。  田中市長は今後の佐伯の文化事業として市民による「こどもミュージカル」やエコール・ド・パリの作品が蒐集された「南海コレクション」の展示をおおいた国民文化祭のひとつの企画として考えていることなど具体的な企画も次々と出てきて目を見張るものがあるが、それらを運営するいわば心臓部、市長としてどういう世界を実現しようとしているかについて語るときが白眉であった。  私なりに市長に肖り、かつ敬意を賞するために、誤解を恐れずに正直に書こう。市長の言葉でいうと、市長はつまり、サタン文化に堕することなく、佐伯を極楽浄土にすることを夢に描いていらっしゃった。そのために、芸術文化の力で自らと市民の「気」を高めるのだと。我々が佐伯から見上げているのは世界などという小さなものではなく、宇宙なのだと。  「気」を高めるとは何のことか戸惑い質問させてもらうと、「気」を高めることで人としての次元も上がり、後光が差すようになるだと説明をしてくださった。
はっきり断っておくと、ご自身でも説明されていたように田中市長は特定の宗教の信仰があるのではない。サタン文化とは、物質的に利己的な人間の在り方のことで、「気」を高めるとは利己心から離れて生きていけるようになることだろう。それは多くの人が理想とする状態で、私も理想と現実の間で苦悩しているので市長の「気」の話には全面的に賛同できる。市長の理念の強さが、世界観の説明のために神話や宗教の語彙を必要としたに過ぎない。  芸術文化政策に関しては、私はそのとき反射的に、考え込んでしまった。芸術文化はいつも必ず人間精神を高めるというわけではない、ということももちろんだが、それ以前に芸術文化に対して、何であれ目的を持って近づいたり取り扱ったりするときに、芸術文化が本来持つほとんどの力が、逃げて行ってしまうからだ。それはちょうど人の持つやさしさに似ていて、何の目的もなく差しだし、また、差しだされたいものではないだろうか。芸術はほとんど何の役にも立たない。だからこそ四方を埋め固めた絶望を易々とすり抜けて、その中の打ちひしがれた人の心に届くのだ。その人を救うかどうかはわからない、届いた後はその人だけの問題だ。  言うまでもないが色んな考え方があるし答えはない。田中市長も私が考えたことなど当然ご承知の上で乗り越えて、しかしなお、敢えてそのように語る必要がある、という覚悟の表れなのかもしれない。たしかに、その個性的な言い回しで、つまりは人間精神を研ぎ澄まして世界をよくしていきたいこと、そのためにご自身でできる任務として、全てを賭して政務に取り組み、佐伯の未来を背負うという情熱の魂が語られていた。それは、私だけではなく会場の全ての人の心臓を射抜いたはずだ。  それから数日の間、ずっと考えていたのだが、シベリア抑留から帰還した詩人、石原吉郎のこんな詩を思い出してから私なりに腑に落ちた。

「花であることでしか 拮抗できない外部というものが なければならぬ 花へおしかぶさる重みを 花のかたちのまま おしかえす そのとき花であることは もはや ひとつの宣言である ひとつの花でしか あり得ぬ日々をこえて 花でしかついにあり得ぬために 花の周辺は適確にめざめ 花の輪郭は 鋼鉄のようでなければならぬ」(*3)  田中市長も、新見館長も、恐縮だが私も、それぞれに拮抗している外部は同じものではないだろうか。外部は「サタン文化」と呼ばれることもあるし、「見せかけ」とよばれることもあるし、「思考停止」と呼ばれることもあるだろう。外部の正体が何であるかということよりも、そのようにしか存在することができないそれぞれの「花」のほうに私の関心は向く。
そしてそれぞれの「花の輪郭」が「鋼鉄のようで」なければならないことにも。 〇すでにある佐伯マリーンミュージアム  田中市長のインタビューが終わると、佐伯のフレンチシェフ、ムッシュカワノさんが用意してくれた色とりどりのタルトを囲んで懇親会が開かれた。懇親会についてはここには書かない(書けない)。宴とは参加することが全てだからだ。  佐伯に泊まった私は翌日、再び「味愉嬉食堂」を訪れごまだしうどんを食べた。  そのとき「味愉嬉食堂」の店主がごまだしの起源とおおいたの歴史について教えてくれたのだが、忘れられないのは、「エソを擦っていると、同じように作っていた海洋民族の祖先の心と自分が繋がってその時代の光景が見えてくる」という発言だ。
 それは私には分かるような分からないような話ではあったが、理解とは関係なく、人間の創造性の神秘に触れたのは確かだった。  田中市長も、「味愉嬉食堂」の店主も、海洋民族という言葉を使っていた。叙事詩的な響きを持つこの言葉は、私にとって佐伯を包み込む一つの巨大な想念のようなものとなった。私の見た佐伯は当然ごく一部に過ぎず、その全貌は謎のままで、その謎を見下ろす巨人みたいに海洋民族が直立している。  「味愉嬉食堂」のすぐそばに「根木青紅堂書店」があって、すぐそばに古本屋さんもある。私は大分市よりも田舎には住めない、と冗談交じりにうそぶくことがあるのだが、この街並みとごまだしと、海洋民族の謎があるのならば、正直に言って佐伯には住んでみたいと思った。もちろん佐伯市立オクテトラ極楽ミュージアムができたら、最高なのは言うまでもない。  佐伯市内から参加をしてくれた30名を越える方々、ご来場ありがとうございました。佐伯市外から参加してくださった方々、ご来場ありがとうございました。懇親会に参加できなかった方も、またぜひゆっくりお話しさせて頂ければ幸甚です。  会場を貸してくれたcoffee5の内田豪さん、スタッフの方々、お世話になりました。おいしいケータリング料理を作ってくれたムッシュカワノさん、ごちそうさまでした。おかげで楽しく刺激的な時間を作ることができました。  おおいた国民文化祭広報の市川靖子さん、来てくださってありがとうございました。何か一緒に作れたら嬉しいです。ぜひまたご参加くださいませ。
 江副直樹さん、川嶋克さん、いつも強力なサポートありがとうございます。  註 *1 このあたりのことはNHKの番組、「シリーズ 日本人は何を考えてきたか」の柳田邦男の回から学んだ。
 *2 武蔵野美術大学のHPで新見館長の教員紹介をぜひともご一読あれ。私は初めて読んだとき、涙が出るぐらい心が共鳴し、奮えた。
http://profile.musabi.ac.jp/page/NIIMI_Ryu.html *3 思潮社「現代詩文庫 石原吉郎詩集」より「花であること」 

たびするシューレ 第1回 竹田へのたび ~カモシカ書店 岩尾 晋作

1.日本一のゲストハウスでエクスタシー 隠れキリシタンの礼拝堂があり、滝廉太郎が「荒城の月」の霊感を受けた岡城を有し、現代も石畳や武家屋敷を残す幽玄とますらおぶりの城下町、竹田。古都の趣に加え、近年は現代的なセンスで最新の図書館やアートレジデンスを作り、県内で明らかに異彩を放っている革命の町だ。 僕の暮らす大分市内から竹田のセントラルシティまでは車で1時間。
たびするシューレの初開催を目前にして、不安の奥底にある期待と希望が表情ににじみ出たみたいに、雲の端を赤く染める夕日を見ながら、車は順調に進んだ。

今回のシューレの会場で使わせてもらったのは竹田駅前に野心と自信を持って新しく立ち上げられたゲストハウス「たけた駅前ホステルcue」だ。 僕はゲストハウスが好きで、日本でも外国でもいくつも泊まったが、古民家を大胆にリノベーションした「cue」の建物、内装の力強さ、洗練さには度肝を抜かれた。古民家らしい堂々とした梁が天井に架かり、エントランスにパン屋「かどぱん」を据え、普段はそこで食事ができるほど贅沢に広い。入口に佇む木製フィギュアは竹田を拠点にするアートユニット「オレクトロニカ」による作品で、番人というよりも瀟洒なドアマンといったところだろうか。 こんな気持ちの良いゲストハウスは他にはちょっとない。日本随一といっても全く過言ではないゲストハウスがある大分県に、今後の未来を感じずにはいられなかった。 そのようにしてすぐにここが竹田の中心、いわば革命の伽藍であると確信できたが、正直にいうと、一番に思ったことは、こういうゲストハウスが大分市中心部に欲しい、こんな要塞を持つことができたらどんなに自分の町を盛り上げることができるだろうという、嫉妬にも近い、羨望だった。 とにかく、こんな会場を選んでくれた、たびするシューレのプロデューサー、西田稔彦さんの町を見抜く慧眼に唸った。 ゲストハウスを切り盛りする堀場貴雄・さくら夫妻と、先述したゲストハウス内にあるパン屋さん「かどぱん」の臼田朗さんがイベントの準備をしてくれている。 ひとり、またひとりと会場入りする参加者(ともに学ぶシューレの学生)は徐々に会場を熱気で満たしていった。オランダから竹田に滞在しているアーティスト、ジョン・ニールランドさんも来てくれ、このような集まりは素晴らしいと絶賛してくれた。この小ぶりな城下町に、オランダ人の画家がふらりとやってくるところが、竹田の懐の深さと新奇性だと舌を巻いた。 30人ほどの参加者は竹田にとどまらず県内方々から集まってくださっていた。竹田出身で現在は千葉の大学で教える歌人の川野里子さん、日田在住のプロデューサーで大阪の大学で教鞭も執る江副直樹さん、江副さんの元で学ぶエディター川島克さん、関東から国東に移住して作陶を続ける垣野勝司さん、など大分の未来をそれぞれに創造する方々だ。 みんなの熱気が会場に満ち、僕たちは今夜、竹田の湯たんぽみたいだなどと考えていた。 そしていよいよ、たびするシューレの幕が切って落とされた。
  プロデューサーの西田さんから開会のあいさつと「たびするシューレ」発足の経緯が手短に紹介される。大分県立美術館(OPAM)の新見館長と西田さんの対話から始まったこの企画は江副さんの助力を得て、開催の運びとなったのだ。本当に、いろんな人のおかげで僕たちは今日、このステージにいるということへの、有難さ、を改めて噛み締めた瞬間だった。 そして我らが大分県立美術館OPAMの新見隆館長のレクチャーが始まる。新見先生はカモシカ書店で何度もレクチャーをしてくれているが、そのどれもが人間の本質を射抜き、同時に人間と芸術への大きな信頼と愛に満ちた言葉で組み立てられ、僕はいつも驚嘆する。その感動を大分県民全てで共有したいというのが「たびするシューレ」を運営する上で私の重要なモチベーションともなっている。 新見先生の言葉は、たしかに、我々の「明日」を照らす一条の光になると信じている。 今夜の題目は「エクスタシー! アートの根源とは何か。石内都とスティーブン・コーエン」。 風変わりな衣装の上からさらにシャンデリアを纏い、踊りを舞うダンサーの写真が「cue」の壁面にプロジェクターで照射される。その異様なイリュージョンによって会場のみんなは一瞬にして美術大学の学生になったような気持ちではないだろうか。 不思議な緊張感の中、新見先生は言い放つ。 「人間は滅びると思うか?」

ダンサーが踊っている所は南アフリカのスラム街だった。同国の大きな禍根、アパルトヘイト政策で生まれた数多くのスラム。スラム街の住民同士で争う悲劇がある。 コーエンは騒動の最中のスラム街で、踊る。
見るからにゲイで、奇妙ななりで、スラム街で踊るコーエンを多くの人は無視する、侮蔑の目で見る、石を投げる。
やがて日が暮れる。コーエンはただ踊り続ける。シャンデリアが揺れ、夜闇に輝いた。
そのとき、ひとりの老婆がぽつりと呟いたという。 「きれい。このスラムできれいなものをみたのは初めてだ」

そして石内都という写真家。 ヒロシマという写真集で、衣服を撮った。原爆の、被爆者の、衣服。
ついさっきまで、生きていて、一瞬にして焼かれてしまった人の衣服を。 写真はまざまざと伝えている。かわいらしい衣服、それを身に纏った人のご機嫌な朝を。 恋心も少し寝不足な瞼も、戦時の憂鬱さのなかでも、明日に向かって生活していた全ての死者の柔らかい肌が、愛おしく、何よりも尊く、焼けた衣服に袖を通すのが誰の目にも見えてくるだろう。 そこに存在し、生きていたということ、その真実や魂は原爆なんかで消えてしまうことは絶対にない。石内都はその確信を、写真に込めた。

人間には動物的な限界がある。それはひとつにはいつかは必ず死んでしまうということ。 そして、もうひとつは自分と自分の身内だけよければそれでいいという自己専横性。 この二つが重なり続ければ、人類は滅びるしかない。 芸術には、芸術的に創造的に生きるということには、この限界をときに突破し、超越し、全く新しい世界をみせる開放性がある。 打ちひしがれた人を救い、支え、再び自ら歩き出す勇気を与えてくれる力がある。 人生も、人類も、本質的に悲しいのかもしれない。その悲しさから逃げるのではなく、
悲しみから始め、歓びへと昇華していく。それがエクスタシー、アートの根源だといえるだろう。 さあ、それを踏まえたうえでもう一度問おう。 「人類は滅びると思うか?」


もちろん正解はない。アートについてもこれだけが答えではない。言葉で応じることはたやすいだろうが、そのことにはほとんど意味を感じない。明日から私がどう生きるのか、なにを作るのか、誰と生きるのか。本当に問われているのはそういうことだろう。 劇的に変わる必要はない。外から見てわかる変化は変化として実につまらないものだ。 本質的なことはいつも植物みたいに、変化も成長も見てわからないような速度でしか動かない。 だから同じ毎日を繰り返しながら、でも月を見あげていよう。焦らず、前を向いて遠くまで歩いていこう。我々はやはり、自分を完成させるために生きているのだと僕は信じる。  2.キャバクラから畦道に ここから第1回 たびするシューレのゲスト、草刈淳さんにご登壇頂こう。 竹田の代表的アーティスト、草刈淳に僕がインタビューしていくという設定だ。 手短に紹介すると草刈さんは竹田出身。南画家の祖父を持ち、ご自身は書の道に進み県外で活躍するが、あるとき全ての書関係の団体を脱退し、竹田に戻る。骨董好きから始まった三桁(みつけた)という古道具屋を竹田で運営しつつ書を書き続ける。総合的な美的センスが評価され、空間デザイン、内装、など大分県内外で躍進を続ける。  個人的には2年ほど前に初めてお会いして飲みに行った。そのときは都町のキャバクラに連れて行って頂いたのだが、人と接する技術についてキャバクラにいる女性たちから学ぶことはたくさんある、と丁寧に説いてくださったのを記憶している(余談だが僕はそのとき生まれて初めてキャバクラに行ったのだ)。  それからしばらくお会いしていなかったのが、どしりとした存在感が僕のなかに残っていて、もっともっと草刈さんと話してみたかったのだ。  大勢の前で喋るとなれば、草刈さんはきっと韜晦(とうかい。実力を隠して煙に巻くこと)されるだろうなと勝手に予想していた。だからどうやって心を開いてもらおうか、いろいろ考えていた。
 だが開口一番に草刈さんは「美」について、新見先生の先ほどのレクチャーに関して質問する、という事件が起きた。(質問の内容は新見先生の報告にあるのでここには書かない)  冒頭から芸術家が「美」という言葉を使ったのを聞いて、ああ、この人はむき出しの人なんだな、ポーズなどなく、真っすぐで純粋な生き方をしているのだなと看取して、前述した僕の勝手な予想を自分で愚かだと思った。  地域協力隊として竹田で奮闘する吉峰さんや、カモシカスタッフの波多野樹くんの質問に、大分市から来てくれた小原さんの質問に、草刈さんは誠実に真剣に、自分の言葉で答える。その丁寧な対応や社会の決まり文句を不器用さを感じさせるほど一切使わずに語ろうとする真心に、僕はすっかり魅了されてしまった。  中でも驚きだったのは、当時の自分の書の道に自分で疑問を持ったときに、所属していた書道団体のコンペに敢えて書を変に書いてさらに誤字も二つ混ぜて出品した、という告白だった。その作品の結果はなんと高く評価されて受賞。それをみた草刈さんは団体を離れ独自に書の道を歩もうと決心されたということだ。  ある制約や束縛、倦怠を逸脱すること、あるいは逸脱しようとするエネルギー。それらはいつも芸術や文学で起きる爆発の最初の火花であることは間違いないのだが、逸脱したもの同士が同じ地平に立ち、いつの間にか集まってまた新たな制約や束縛や倦怠を作るというのはいつの時代にもあるし、集団でなく個人の創作活動の歴史を振り返っても束縛から逸脱、その結果また新たな束縛、という連続する波は見られる。  僕が何を言いたいのかというと、芸術家だから自由だということはないし、芸術家が集まることで何か特別な集団が形成されるわけでもないということ。大切なのは倦怠していないかという自己メンテナンス、これでまあいいやというような思考停止に全力でNO! を突き付けること。 当然、独立した草刈さんには独り立ちに付きまとう孤独や疎外、辺境化という苦難が付きまとうのだが、誰だって独立するときはそれぐらいの覚悟はするだろう。本当の試練は独立した自分が独立したことによって生まれる新しい倦怠や形式主義や御座なりのものに目を背けずにいようと日々内省するときから始まるのだろう。 草刈さんは竹田の生活が心地よいそうだ。移住者やUターンした人、観光客も増えてきている故郷に対して「人が増えるのを拒む理由はないよね」と柔らかい。そして自分という変人がいることで他の変人の居心地をよくしたい、とまで言ってしまうのは感じの良さを通り越してチャーミングですらあるだろう。 竹田に来る人に、「岡城や温泉ではなく、素朴な田んぼの畦道を案内したい」とも言っていた。僕はもうその畦道を必ず見に行きたい。何でもない日に、わざわざそのために、竹田に泊まってでも、草刈さんが好きな畦道を教えてもらおうと思った。

草刈さんは自分自身に自在に立ち向かえる人だろう。何もかもが僕の想像をはるかに上回る気持ちのいい芸術家でした。本当に楽しかったし、魂拝見しました。
草刈さん、ありがとうございました。

その夜は僕たちは午前2時まで飲んだ。
竹田の若きリーダー、リカドの桑島(現 小林)さんと久しぶりにゆっくり話した。臼田さんとも、西田さんとも、たっぷり時間を過ごし、酔っぱらった。
飲みの席の話題はここには書かない(書けない)。参加することが全てだからだ。
次回のたびするシューレに、ぜひともお越しください。   

シューベルトの連弾 -竹田での、「旅のシューレ」を終えて~大分県立美術館OPAM 館長 新見隆

[ シューベルティアーデ ]
 こうして、東京郊外のサナトリウムの森の一角に、久しぶりに戻って、女房と娘の顔を久しぶりに見ながら、お互い、子供の頃に返ったような、懐かしさ温かさを感じて、ソファに寝転がって、シューベルトのピアノを聴く。  井上直幸と竹内啓子による、あまり知られていない、連弾曲だ。  若い頃から、彼のドビュッシーを愛聴した井上直幸だが、帰らぬ人となった。  シューベルトの連弾は、もの哀しい曲が多い。その哀しさは、けっして身を裂くような激しいものではないが、そこはかとない、生の淡い揺曳を想わせて、忘れがたい。(註)  幼い頃から病弱だったシューベルトは、つねに死の予感とともにあった訳だが、そのライナー・ノートには、たしか、彼が多くの連弾曲を残したのには、「ある種の、共生、小さな共同体への憧れがあった」と書いてあって、ドキリと胸を打たれた覚えがあるのも、ふと思い出した。よく知られているように、身体が弱かったためか、シューベルトは、大勢の観客を相手にした大演奏を容易には行えず、そのために、親しい友人たちが、彼のために集って、シューベルティアーデという会を定期的に持った、という。かの黄金の世紀末画家、クリムトの若い頃に、この会でピアノ弾くシューベルトを描いた小品がある。  小さな部屋のようだが、温かい、不思議な光が、鍵盤を前にしたシューベルトを照らしている。それは、いっしゅ、聖なる光、と言っていいものだ。  たぶん、私ども、大分の中心で、文化の拠点、カモシカ書店を立ちあげた岩尾晋作君も、竹田の町おこしを積極的に推進する西田稔彦君も、彼らを強力にサポートする、日田のプロデューサーの江副直樹さんも、そういう、小さな、そして温かい、じんわりと銘々の心を照らす光、そういう共同体を、目指しているのだと思う。
 ・   ・   ・
 師走の慌ただしいさなか、ついこのあいだの今週の月曜の夜、駆けつけた、夕闇迫る竹田は、思いのほか、温かかった。それは、すでに何度か来て、見知った町となった竹田の夜に灯った小さな灯火と、それに集う人びとの、何かを待ち望む、「小さな期待」のせいだったかもしれない。  期待は、そして望みは、小さい方がいい、と言っている訳ではない。  それは、あたかも、シューベルトの連弾について、そのライナー・ノートの執筆者が言っていたような、意味でである。  大好きな、というか、ほとんど若い頃から、唯一、変わらず熱狂して影響を受けたのが、世紀末ドイツの詩人リルケだが、彼の珠玉の童話に、『神さまの話』という、彼がロシアから戻って、その「神にもっとも近い人びとの暮らす地」の思い出を綴った、物語集がある。その一編に、ある女性詩人が、幼い頃に、来客を待ち望む話、その、何とも言いがたい、期待の時間の心踊るさまや、「待つことの」じたいの、魂の内側から湧いて来る温かさを、語りかけ、呼びおこそうとする場面がある。
 素敵な場所の始まり、それは美意識の共同体、ともいえる「かどぱん」を、立ちあげた臼田朗さん夫妻や、その上に、待望の現代版ユースホステル「駅前Cueキュー」を営む、堀場さくらさん夫妻を囲んだ、小さな会はそうやって始まった。 [ 芸術家は、美を知らない? ]  いつも、何処でも言っていることだが、私はある種狷介な、芸術至上主義者だ。それは、芸術こそが、あらゆる地上の存在より偉い、というのとはかなり違うだろうか。喩えて言えば、「芸術家がいちばん偉いのか?」と訊かれれば、「そうではなくて、「芸術的に生きている人なら誰でも偉い」のであって、表面的な職業には、かかわらない」、と答えるだろう。じゃあ、いったいどういうのが「芸術的」なのか、ときかれると困るが、敢えて乱暴にいうと、「何の気無しに、生きてはいないのに、何の気無しに生きているように見える人」と答えるかもしれない。それは、昔の人が、何のこれといって娯楽のない時代に、それでも、草木を愛で、鳥の声をきいて喜んだ、そこに、無上の生きる悦びを見いだした、そういう、心のゆとりをこそ、「芸術的」とただ、呼びたいだけなのである。
 私が前座で話した後に、後半のトークの主人公、書家である、草刈淳さんから、ちょっとした質問があった。たしか、「表現者にとって、美の基準というものが、あるのか」というものだったと記憶する。  私は、美の基準は、むしろ表現を受け取る人にあって、芸術家そのものには、関係ない、と言ったような気がする。けっして「私つくる人」「私受け取る人」の、表現者=受容者の、区別や、峻別を言った訳では、むろんない。表現者と受容者は、元来同じものであって、職業云々を言わなくても、芸術家は、自分のなかにある、もう一人の自分、つまり「他者」に向かってつくる、と思っているし、また職業的に芸術家でない人も、「良い」とか「悪い」とか、「好き」だ「嫌い」だと感じることで、じゅうぶん、何かを「つくって」いる、と思う。  それはじつは、こういうことだ。
 その時にも言ったことだが、リルケは、私淑していた彫刻家ロダンについて書いた(じっさいは、講演の草稿だが)文章で、「かつて、美をつくった人はいない。芸術家とは、美が宿る祭壇を掃除し、整える人のことだ」というようなことを言っているし、私も心底、そう思う。畏友で作家のさかぎしよしおう、の言葉だが、これが「芸術の媒介性」ということになるのだろう。  何か、どこにあるのか良く分からないもの、そういうものに、突き動かされて、人はものを生みだすからだ。自分の言葉でいえば、「宇宙芸術霊」は、必ず存在するのである。逆に、それを、自分のなかの他者、と言ってもいいし、また単純に、隣に座っている誰か、家族とか友人とか、見知らぬ誰か、そういう「他者」の一人、とも言い換えてもいい。  戦後の美術を牽引した美術批評家、瀧口修造は、縄文土器など古代人が残したものの力を讃えたが、そこで「彼ら古代人は、大きな、巨大な他者に向かって、こうしたものを、つくったのだ」というようなことを、言っている。 [ 柔らかい、頑固さ ]  じつは、後半の、ゲスト草刈さんへ、岩尾君が繰り出す質問と応答、そのトークの核心も、そのへんにあったように、思われたのである。  話は、竹田の町がさいきん活気がひじょうに出て、新しい動きが起こっていることから、ごじしんのUターンのこと、さらには、専門の書に及んで、興味は尽きなかった。  木訥、とも言える控えめな語り口は、彼草刈さんの、首尾一貫した、世の中の「分かり易さ」への傾き、所謂急速にすすみつつあるように思われる「記号化」を、如何に避けて、自分の楽しさのリアリティーを堅持するか、そういう頑固さにもみえて、終始、感じが良かった。これからは、「固な柔らかさ」だな、と思えた瞬間だ。  他でも同じようなことを書いているが、今は、昔と違って、自分の好みや信条で、簡単に嫌いなものを切り捨てられない時代だ。多様なものの共存を認める、寛容の時代であるのは百の承知だが、またそれはある種、良い道筋だとも、思えるのもたしかだ(これは、先日、我がOPAMであった、イサム・ノグチと現代音楽、武満徹との関係に焦点をあてたレクチャーで、作曲家の清水慶彦さんが、語ったことでもある)。ただ、いっぽう「何でもかんでも有り」、にすると、また今度は、なんというか、「無意味で、膨大なもののあいだを、そういう指標の無い大海を、四苦八苦して泳いでいかないといけない羽目」に陥る。だから、やはり、現代は、難しい時代だ。  「自分は、すごく気持ち良い竹田を知っている。お城や遺跡じゃなく、田んぼの素敵な畦道を、見せることが得意だな」。  「竹田は、ある種、良い具合に囲まれた狭い地形で、だから、良いものが、なかなか出て行かないのかもしれない」。  「花という字を、花を感じさせるように書くのは、ちょっと、つまらないなあ」。(これには、私もすごく共感するし、何より、時々自分でも引用して、使う話だが、今我が OPAMでやっている彫刻家のイサム・ノグチが、前衛生花の巨匠、勅使河原蒼風が花を生けていて、「花を生けて、花に見えたら、芸術じゃないでしょう」と言ったそうで、そのことは蒼風が感心して文章に書き残している。)  「それは、むしろ、石、そこらにあって、どこにもない、石を書いているような感じかな」。
 「体験や、身体の技術が、ものに触れて、どう表われるのか、ただ、見てみたいだけ」。  「何か、言葉で上手く言えない妙なところで、アッ通じたな、響いたな、という反応が、嬉しいし、そういう時に他者と自分との存在、その関係を心地良い、と思う」。  「楽しい時にも、崖っぷちの時にも、書く。どういうものが、出てくるか、自分でも分からないから」。  「話してても、何となく、ズボンに指で字を書いていることがあって、無意識で。人にも、言われる「お前、また、書いているな」と。「ハッ」と、気づくと書いてるんだな、そういう時は。まあ、字を書くのが根っから、好きなんだろ」。  自動車で東京に発つという草刈さんを手締めで見送って、美味しいワイン、香り高いパンに、臼田夫妻謹製の、牛蒡スープに、仔牛のワイン煮、ピクルスに舌鼓を打った。  畏敬する竹田出身の歌人の川野里子さんが来てくれたし、ユニークな南画蒐集家の二宮健君(翌日立て込んでいたので、彼に頼んで、急遽、夜大分に車で送ってもらい、帰らせてもらった、次は泊まりで是非来たいと思う)が大分市から、そして国東の陶芸家垣野勝司君が、安岐からわざわざ来てくれて、感激した。オランダから、今竹田で制作中の絵描き、ジョン・ニールランドさんも来訪して、賑わった。  余談だが、鶏天、鶏唐狂の私にとって、初めての「丸福本店」のから揚げも、「シットリ、カラカラ」で、しごく気に入った。(ふだんは、大分は、「丸福住吉」の、ヘヴィー・ユーザーなのだが、、、。)
 雪のまだ降らない、竹田の師走の快夜だった。  そして、翌昼私に届けられたのは(岩尾君に配達を頼んだ)、竹田きっての「美味どころ」イタリアン、「リカド」の元気者、桑島孝彦君の、渾身の洋風弁当だった。イノシシの幅ひろパスタ、猪リエット、牛蒡や里芋など根菜満載、椎茸とエリンギ、鯖オイル焼きなど、海山の佳肴満載のゴージャスな弁当に、またまた驚愕。 「埋み火の、音聴く夜半には、本を捨て、闇に出でんか、神神よ立て」。  「隠れ居て、神神喚ぶと巫女よ言え、ひと紅の、天の龍見て」。  豊かに、楽しみ、豊かに、学び、「旅するシューレ」の開幕、おあとが、よろしいようで。  (註) レクチャーで、話した内容で、「エクスタシー」のラテン語語源が、「澱みの外へ出る」というのは、僕の説ではなく、畏友の文化活動家、熊倉敬聡の言から、借りたもの。レクチャー で は迂闊にも言い忘れて、失礼したので、ここに、注記しておく。 レントラーという、ハンガリー風の舞曲というのも、どこかで読んだが、ウィーンからブタペストに向かう車中で見た、草原にぽつぽつと点在する侘しい民家、煙ののぼるたたずまいが、今でも忘れがたい。 「メラータ」からでたCDを愛聴したいじょうに、この手元に見つからないライナー・ノートの筆者と、後に、ポルトガルの名手、マリア・ジョアン・ピリスが、リカルド・カストロと、2005年にグラモフォンから出した連弾集にも、熱狂したので、そのライナー・ノートの筆者から、文中すべての、シューベルトの連弾の基本事項すべてについて、学んで借りた。 竹田出身の、瀧廉太郎が学んだのは、たしかメンデルスゾーンの起こした音楽学校だった、と記臆するので、瀧とメンデルスゾーンについて、そして私どもが、新生大分県立美術館の、プレ・オープンで、ゾンビ音楽をやっている安野太郎君に、オマージュ瀧廉太郎の作曲を依頼した話もしたかったが、それはまた機会に。 さらには、豊後南画の先駆、田能村竹田について、そして隠れキリシタンについても、もっともっと話したいことはあるが、それもまた、いつか。